2022年4月20日、讀賣新聞オンライン「デジタル美術館」に記事が載りました!
タイトル「そこにいる、ただそれだけで…障害者のアート デジタル美術館〈7〉ねむの木学園」。下記のURLリンクをクリックしてください。いつまでも掲載されないと思いますので、その記事の内容ををこちらでも掲載させていただきました。
※画像データはデジラル美術館でご覧ください。
讀賣新聞オンライン「デジタル美術館」か下記のリンクです!
【記事の内容】
1968年に日本初の肢体不自由児養護施設として設立された「ねむの木学園」では、創設当初から、障害者の表現活動を重視し、舞台や美術の表現機会をもっていた。2020年3月、事業を一身に背負ってきた創設者で女優の宮城まり子さんが永眠したが、子どもたちへの優しいまなざしは、多くのメッセージとなって残されている。学園の協力を得て、宮城まり子さんが残した言葉とともに10作品を紹介する。(作品の解説は、宮城まり子さんが、一人一人の“世界”を散文や詩で記し、残したものです。作品と直接の関係があるわけではありません)
●ほんめとしみつ「かあさんの入院」
かあさん、ぼく、挫折したのかな。えが、かけない、もう3年かいてない、だめな子になっちゃったのかな。えがかけなかったらどうしたらいいの。ぼくだめになったの。おしえて下さい。 としみつ
同じところに住んでいるのに手紙がきました。びっくりしました。えがかけないといっている。挫折という字を知っている。私はとしみつを1人呼びました。
としみつちゃん、挫折ってなーに。挫折を知ったということは素晴らしいことよ。自分を迷わない人が駄目な人。挫折をこえて次の山をのぼるの、それが一番、素晴らしいことよ。としみつは、ぽろぽろ泣きました。
そして、言いました。「ぼく、がんばる。」
●おおさこたいすけ「ぼくの部屋」
コンサートの時、歌いながら、たいすけはうれしくてうれしくてたまらなくなったらしく、私にとびついて、手を持って、ピョンピョンとびました。かわいくてかわいくて。でも私は、これが演出と思われたらつまらなくなると思って、そっと手をはなしました。
コンサートが終わって、お友達から電話をいただきました。
「私ね、心がけかえるわ。今まで、女の子より男の子の方が、どっちかっていうと好きだったのよ。でも舞台であなたの手を持ってピョンピョンとんだ子いたでしょ。あの女の子かわいいわね。あたしもってっちゃおうかと思ったわ。」
あ、たいすけだ。思わず、噴き出してしまいました。
「ごめんなさい。心がけかえなくてもいいです。だって、ピョンピョンとんだ子、女の子じゃないの。男の子なの。私、大体の子の髪の毛切るので、なんとなく女の子みたいになっちゃうの。」
「ああそうか、私、てっきり女の子と思った。ピョンピョンとんだわね。うれしくてうれしくてたまらないのよね。」
私は、「オチャノム?」と聞くたいすけの、うれしくてたまらないときの、糸みたいに細くなる目を思い出していました。
大きくなれ、たいすけ。人の喜ぶ顔を見て、自分もうれしいと思える人になれ。
●なかたよしえ「水の玉」
よっちゃんね あのね よっちゃんね おかあさんのおへや そうじしたの まどをあけて かぜを とおしたから くうき おいしいのと かえたから ベッドで ねてね おやすみなさい だいすき だいすきな おかあさん いつも おもっています おくすりのんでください はやく かえってください だいすきな おかあさん
●むらまつきよみ「まっ赤なもみじ」
「きよみちゃん、あなたは、胎児性軟骨異栄養症という病気なの。ほら、手の不自由な子も車イスの子もいるでしょ。誰のせいでもなく、脳性マヒという病気になっちゃって、それであるけないお友達もいるでしょ。あなたは脳性マヒじゃないの。だから、手も足も動く。でも、あなたの病気は背がのびないの。とってもかわいそうだけど、それ以上あんまりのびないの。でもね、よくきいてね。よく、きいてね。フランスのロートレックという人は、12歳のとき足を折って、それから何度も何度も足が折れて、背が伸びなかったの。一メートル五十二センチメートルしかなかったの。でも、ロートレックは絵を描いたの。貴族のロートレックは、街の人を愛し、美しい心を愛し、絵を描いたのよ。世界で一流の画家になったのよ。強くね、堂々とどこでも出ていったの。
あなたが今本当に考えることは、背のことじゃなく、堂々と生きていくことだと思うの。だから、何も考えないで絵を描きなさい。あなたはとっても素敵な絵があるから、これからは、背の小さいぶんだけ大きい絵を描いてちょうだい。疲れるといけないから、少しずつでもいい。大きな心で絵をかいてね。背のぶんだけ、人より大きな心の絵を描いてほしい。小さいからということは、はずかしいことじゃないの。それに勝つことが大切なの」
滂沱ぼうだ として流れる涙と鼻水で、くちゃくちゃになりながら、私の胸に顔をうずめて、きよみは泣きました。何時間も泣きました。それは、今までためていた涙が、すべてあふれ出るように。
私の口から、はっきり病名も、将来背がのびないことも、知らされました。私の胸で泣いて同じベッドで抱きあって眠った朝、きよみは、改めてはれあがった目で私を見て、私にすがりつきました。
●ひらたやすひこ「おかあちゃんとぼく」
おはなうえました。 くさとりをしました。 なかにわをやりました。 えをかきました。 あさ おかあさんのへやにいきました。 びじゅつをやりました。 こんどねたい おかあさんとぼくねたい きょう あめがふりました。
●やましたゆみこ「みんなであそびに行ったら、黄色い木 を1本みつけたの」
ゆみちゃんが絵を描きはじめたころ、すべての絵の中に炎が描きいれてありました。「何故だろう。小さい時、お家でボヤがあったかしら。その時の心に残ったものがいつも出てくるのかしら」
お父さんに聞きました。「ほんの小さい山に火事がありました。なんともありません」
心の傷を消したいと努力しました。ゆみちゃん一人のため、全員で、グアム島に行きました。ゆみちゃんの絵に、イソギンチャクやタコやヒトデがいっぱい描かれていました。でも炎はありませんでした。ねむの木は花の中、みんなでねっころがって遊びました。
ゆみちゃんは花が大好きになりました。
花々花々、ゆみちゃんはバセドー病です。人より疲れます。
なのに一つ一つ、いっぱいの花を描く根気を持っています。
心の火事は消えました。
●こいしかわかなえ「いっぱいいっぱいすき」
かなえちゃんは、ちょっとわがままです。 だから、お友達がすくないです。 その淋しさは、絵をかくことで飛んでしまいます。 でもかなえちゃんは、ピアノを弾くことを知っています。 何よりのお友達です。
●やまむらあい「ねむの木の花」
私の愛するねむの木の天使 あいちゃんの赤いクツ 可愛いあいちゃん あたしの赤いクツ いいでしょ 赤いクツ あたしの赤いクツ 重たい 赤いクツ お空が青いのは 赤いクツが似合うから お花が白いのは 赤いクツが似合うから イヤイヤしないで はいてね赤いクツ ママの切ない重たい赤いクツ わかってあげてね 切ない赤いクツ いっしょに歩きましょ あいちゃんの赤いクツ あたしの赤いクツ いいでしょ 赤いクツ
●よしだかずあき「ねむの木村にお花がいっぱい」
まあ、なんというきれいな色でしょう。 たくさんお家もお花も人も描いてね。 二本の杖をついてやっと歩いていたかずちゃんが、 もう、なんにもなしで歩いたり、手で持ったり出来るようになれて、こんなにきれいなお家を建ててくれたのね。 あとは、歩けない子に、やさしくしてあげようね、約束。
●ほんめつとむ「みんなやってきた。きれいな夕焼けね」
つとむさんは、新聞をよく読みます。私にいいにきます。やめられないの?小さい子が、泣いている。かあさん行って止めてちょうだい。 テロに驚いたのです。感性豊かな、考えることの出来るこどもです。お点前の美しいこと。やさしいこと。私のこと、いつも心配してくれてます。
●社会福祉法人「ねむの木福祉会」熊谷三樹雄理事長
私は2006年から聖路加国際病院の財団の事務局長をしていました。院長も務めた日野原重明さんと親交のあった宮城まり子先生が、病院をご利用されていたこともあり、私も知り合うことになりました。そんなご縁もあり、学校法人・ねむの木学園の理事と評議員を務めさせていただく機会もありました。2020年3月にまり子先生が亡くなりました。そして私が理事長に就任することになりました。私の使命は、まり子先生が残してくれた思い、例えば「子どもたちを型にはめず、一人一人の個性を大事して受け入れる」という考えに基づいた運営を守り続け、ねむの木学園を一層発展させていくことだと思います。これまでまり子先生は、一身に法人運営を担ってこられました。これからは、学園の人たちも含め、分担して運営していくことになります。学校法人の理事長には、まり子先生のもとで、特別支援学校の教頭をされていた梅津健一先生が就任されました。これからも私たちに関心をもって、成長を見守っていただきたいと思っています。
絵画制作風景 むらまつ きよみ
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